ホーム大凧講座大凧写真館 大凧動画館大凧製作館大凧まつりご案内大凧保存会質問箱
前へ|次へ

5 新戸の大凧の歴史を語る座談会

 新戸の大凧に関わってきたベテランの方々に、新戸の大凧の歴史を語っていただきました。
日時 平成13年(2001年)3月17日
出席者
(敬称略)
梅沢作治、西山一郎、長谷川孝、松下徹、安藤利男、
安藤勝、飯田万次、飯山明、藍田栄一
司会 幟川泰夫
記録 安藤功一、西山正美、山口星司

(1)大凧あげの始まり
・「天保年間」という資料がある。町田のさいか屋に9尺の凧を贈ったことがある。その時に川島栄光さんが資料をみつけてきて、それから天保年間ということになっている。
  ※「天保年間」とする資料は他にもあり。
・日清戦争と小学校の新築(?)落成式のときに前の前の糸を作った。(西山一郎氏)
・安藤一男さんのおじいさん(しんさん)の話(高橋勝氏談)
 ・日清戦争の凱旋祝いで揚げた凧が明治以降、新戸で揚げた最初の大凧。字は「慶祝」。日清戦争前後が「新戸の大凧」の発祥ではないか(梅沢作治氏)
  ※日清戦争戦勝祈願という資料もあり。

(2)凧の字について
・長男の誕生を祝いが始まり。
・赤字は長男が生まれた初節句のお祝い、緑字は豊作祈願。個人では赤字で「祝」と書いて、緑字で長男の名前の一文字を書いた。
・赤はお天道様、青は水と、聞いた。
  ※座間の資料では「赤は太陽、緑は大地」
・家紋に名前のー文字を書いた凧を曾お爺さんに作ってもらった。朝から番までその凧をあげていた。(高橋勝氏 昭和7年生まれ)
・上に家紋、下に名前の一宇を入れた。
・祝いの凧の大きさは7尺、5尺、3尺のどれかの大きさにする。七五三は祝いの基本。正月のお飾りも同じ。

(3)戦前の凧揚げ
・戦前は昭和14年が最後の大凧あげになった。「支那事変で戦死者が出たのに凧どころではない」
・満州事変の前の頃は、若者は奉公に出て地元にはあまりいなかったので、若者から年寄りまで集まってみんなで凧をあげた。
・戦時中は、徴兵検査を受ける歳(数えで22歳)の人が発起人になって、人を集めて凧をあげた。みんな凧をあげて戦争に行った。
  ※発起人がリーダーになり、青年団の人を中心にして、毎年、新戸凧連を組織した?

(4)戦後の凧揚げ
・昭和21年に、西山一郎さんが21歳のときに、角屋の宗ちゃんの弟さんと井上たつおさんの3人が発起人になって大凧を揚げようとしたが、新戸青年団の支部長に「この不況に凧なんてとんでもない」と反対されてできなかった。来年なら良いという約束をとりつけて、翌22年から大凧が再開された。
・その頃も寄せ太鼓をたたいて人を集めた。
・4月8日の花祭り(お釈迦様の誕生日)に凧を作り、4月15日に糸目を付けて、後はお節句まで、風が吹けば毎日揚げていた。
・風が吹くと寄せ太鼓をたたいて歩いてみんなを集めた。年寄りも集めた。昔の寄せ太鼓は児童館にある。
・大きさは5尺7間。
・満20歳になった人が発起人になって、人を集めて凧を揚げた。
・1人、会費100円、ざく縄(荒縄)2貫目(8kg。一たいこ、ひとていこ)、こぜ縄1ぼ(1歩、50ひろ)、うどん粉5合が、参加の条件だった。
・昭和26年頃から28年頃は、会費1,000円だった。その頃の花は500円が多かった。昔は酒も飲まなかったから、みんな凧の費用だった。(長谷川孝氏)
・戦前は30銭だったこともあった。(梅沢作治氏)
・昭和27、28年頃に「大凧揚げ60周年」ということだった。青年団の25、26人全員が新戸の祭りの宵宮で踊りを踊って、花をかけてもらって凧揚げ資金を稼いだ。本祭りは消防の管轄だった。(長谷川孝氏)
・昭和27、28年頃、厚木の「キネマ」から16ミリフィルムを借りてきて、映画会を行って資金を稼いだ。長屋の庭や、三浜館、小学校の講堂などを使って、木戸銭は50円〜100円くらい。キャンディーなども売った。「鞍馬天狗」「忠臣蔵」「聞け、わだつみの声」「ビルマの竪琴」などを上映した。「若いしのやることならしょうがない」と、どこでも券を買ってくれた。2、3年やった。(安藤利男氏)
・小学校5,6年頃にその映画を見に行った。(飯山明氏)
・昔は凧を作るときには酒は飲まなかった。飲むのは揚げる日だけだった。その分、凧の慰労会でバスで長瀞まで行ったことがある。(安藤利男氏)
・大きさは本間(6尺)7間。戦後は本間7間になった。
  ※昭和5年の写真の裏書では「6尺8間」
  ※昭和10年の新聞には「今年ははじめて本間8間を揚げる」という記事あり。
・揚げ場所は一郎さんの裏の田んぼ。
  ※これは戦前から? 昭和5年の写真や昭和10年の新聞を見てもそこらあたりのように見える。
・凧作りや凧揚げに借りた田んぼは耕して返した。5月一杯かかった。(長谷川孝氏)
・凧は毎年揚げたが、戦後2、3回くらい休んだことがある。テレビが普及した頃から人が集まらなくなった。
・「オリンピックの年は凧連が5,6人しかいなかった」(藍田栄一氏)。このため、各地区の負担を軽くして存続するため、自治会の各地区から1人ずつ糸世話人が出て応援する形で新磯の4地区持ち回りで揚げようということになった。新戸の番でないときには、グランドの人たちが私的に揚げていた。
  ※その頃には中心は自治会になっていた?
・自治会が中心になった頃に合掌の木を上のお宮の上の田中さんの家からもらって運んだ。

(5)凧揚げ場所の移り変わり
・昭和26年頃、磯部の人が町田の花火を見に行った帰りに用配水に落ちて亡くなるという事故があった。このため座間の醤油屋さんが寄付をして用配水の脇にコンクリートの支柱を立てて番線3本通して柵を作った。その柵に引っかかって糸目が切れてしまうので、相武台下の西に移った。(西山一郎氏)
  ※電線の影響はなかった?
・26年から2年くらい揚げたが、糸目が切れてどうしようもなかった。(長谷川孝氏)
・今の渋谷さんの家の所でも揚げた。(飯山明氏)
・今のふれあセンターの西側で揚げたこともある。昭和40年頃。(藍田栄一氏)
・コンクリけいはんができて揚げるのに危なくなった。河原にグランドができた(昭和49年、50年頃)のでそちらに移った。

(6)題字書きの場所
・戦前は三浜館で書いた。
・戦後何年かは元陸軍士官学校の重砲廠(じゆうほうしょう)で書いた。その後、重砲廠は農林省の管轄になって、書けなくなった(松下徹氏)
・昭和28年の「琢磨」は重砲廠で書いた。(安藤利男氏)
・その後は小学校の講堂を使った。

(7)凧番と番小屋
・丸太を組んで、麦わらをふいた。 5、6人入ればいっぱいの大きさ。中に囲炉裏を作った。
・籠に布団を入れて持ち込み、朝まで番をした。(安藤勝氏)
・昭和22年には番小屋を作った。
・その頃は、新磯4ケ所、座間7ケ所(上・中・下宿、新田、四谷、入谷)で揚げていて、糸目を切られたりしないようにということだったが、実際に糸目が切られるようなことはなかった。凧の大きさは、新戸以外はほとんど4間だった。
・オリンピックの頃は一升瓶は転がっていなかった。金がなかったせいか二号瓶、四号瓶だったような気がする。(藍田栄一氏)

(8)糸目など
・昭和27年に今の糸目を作った。(長谷川孝氏)
・その時、藍田床屋の所の電柱と黒滝としかずさんの所の電柱で縛って、真中で糸目の糸をみんなで引っ張ってくせをとった。(安藤利男氏)
・そのときの麻は、石井孝さんの紹介で栃木まで買いに行った。糸目を作るときには各戸から寄付を募った。
・糸目(細いもの)は、明治、大正時代は常福寺に保管させてもらっていた。昭和天皇の即位の年に新しい糸目を作って長松寺に保管させてもらうようになった。
・しかし、ねずみが小便をかけるので、凧揚げのときに糸目が切れやすくて困った。(梅沢作治氏)
・そんなことで昭和27、28年頃に今の糸目を作った。
・新しい糸目は、下のお宮の東方の下屋に保管した。集会所ができてからは集会所に保管するようになった。
・親父の頃に「麻を荷車いっぱい伊勢原から運んだ」と聞いている。(藍田栄一氏)

(9)凧の装束
・柄付きの長襦袢にめくら縞の半纏(膝まである半纏。濃紺で厚手の木綿製)を着て尻端折りにしていた。戦前からそうだった。(梅沢作治氏)
・足はわらじをはいた。白足袋を履く人もいた。(松下徹氏)
・わらじの予備を腰にさしておいた。しごきを5本とか7本とかつけた。(飯田万次氏)
・麦わら帽子をかぶり、たすき、胴巻き、手甲を付けた。ズボンはいろいろ。
・顔にはドーランを塗って化粧をした。昭和30年代までか?(飯田万次氏)

(10)無礼講
・凧連は近辺では無礼講状態だった。凧遠の衣装で初節句の家に行くと歓迎してもらえた。
・バス代も電車賃もはらわずに上溝や橋本、依知、町田まで遠征することも。
・新宿までタダで行けた。新宿でサンドイッチマンに間違われた。
・厚木の大橋を渡った所に鈴木楽器があって、そこでレコードをかけてもらって踊ったことも。

(11)対外的活動
・昭和38年頃、小田急の新宿駅ビルの落成記念に、小田急の屋上から2間の凧を4個のアドバルーンで吊るし揚げた。新戸の部落役員が7名で作りに行った。(西山一郎氏)
・横浜の競馬場で揚げたこともある。
・昭和58年頃、阿蘇国立公園の50周年記念で「50畳の凧を作りたい」ということで、新戸の人が7人出かけて行った。(松下徹氏)
・小川宏ショーに出たこともある。

(12)凧と禁忌
・女性については、相撲などと同じように「女性=不浄」という差別があって、関われないということだったのでは?
・49日等との関係は、個人の考えに任されている。

(13)紙や竹の再利用、購入先
・凧の紙は養蚕の蚕部屋の目張りやお茶作りのほいろ(焙炉?)や仕上げの壁に藁の代わりに土に混ぜるもの(つた)として使った。 うるしなどの塗り物を包んで保管するのにも使った。
・凧の竹は、掛け干しの材料や土壁の骨(小舞)などに使った。
・戦前から、凧の紙の和紙は愛川町海底(おぞこ)のハ木下商店まで自転車で買いに行った。
・埼玉の小川町から和紙を買うようになったのは、10年くらい前から?

(14)陸軍士官学校との交流
・全然なかった。(梅沢作治氏)

(15)昔も凧を燃やしていたか
・昔は凧を燃やすことはなかった。紐も全部ほどいた。グランドのメンバーで揚げてた頃には燃やしたことがあるだけ。

(17)題字の書き手
・西山新三郎⇒ 安藤博⇒ 加藤校長(昭和39年まで)

先頭へ

Copyright(C) 2005-2007 The Sagami Giant Kite Preservation Association. Allrights reserved.